(1)昔、男ありけり。……
① 昔、男ありけり。その男、身をえうなきものに思ひなして、京にはあらじ、東の方に住むべき国求めにとて行きけり。
昔、男がいた。その男は、〔自分の〕身を役に立たないものと思い込んで、京にはいるまい、東の〔国の〕方に住むのによい国を見つけようと思って行った。
男=[名]
あり=[動]ラ変「あり」用
けり=[助動]過去「けり」止
その=[連語]
男=[名]
身=[名]
を=[格助]動作の対象
えうなき=[形]ク「えうなし」体
もの=[名]
に=[格助]動作の対象
思ひなし=[動]サ四「思ひなす」用
て=[接助]単純な接続
京=[名]
に=[格助]場所
は=[係助]主題の提示
あら=[動]ラ変「あり」未
じ=[助動]打消意志「じ」止
東=[名]
の=[格助]連体修飾格
方=[名]
に=[格助]動作の方向
住む=[動]マ四「住む」止
べき=[助動]適当「べし」体
国=[名]
求め=[動]マ下二「求む」用
に=[格助]動作の目的
とて=[格助]引用
行き=[動]カ四「行く」用
けり=[助動]過去「けり」止
② もとより友とする人、ひとりふたりして行きけり。
以前から友とする人、一人二人と一緒に行った。
友=[名]
と=[格助]引用
する=[動]サ変「す」体
人=[名]
ひとり=[名]
ふたり=[名]
して=[格助]動作をともにする相手
行き=[動]カ四「行く」用
けり=[助動]過去「けり」止
③ 道知れる人もなくて、惑ひ行きけり。
道を知っている人もいなくて、迷いながら行った。
知れ=[動]ラ四「知る」已
る=[助動]存続「り」体
人=[名]
も=[係助]同趣の一つ
なく=[形]ク「なし」用
て=[接助]単純な接続
惑ひ行き=[動]カ四「惑ふ行く」用
けり=[助動]過去「けり」止
④ 三河の国八橋といふ所に至りぬ。
三河の国の八橋というところに着いた。
八橋=[名]
と=[格助]引用
いふ=[動]ハ四「いふ」体
所=[名]
に=[格助]動作の帰着点
至り=[動]ラ四「至る」用
ぬ=[助動]完了「ぬ」止
⑤ そこを八橋といひけるは、水行く河の蜘蛛手なれば、橋を八つ渡せるによりてなむ、八橋といひける。
そこを八橋といったのは、水が流れる川が蜘蛛の足のように八方にわかれているので、橋を八つ渡していることによって、八橋といった。
を=[格助]動作の対象
八橋=[名]
と=[格助]引用
いひ=[動]ハ四「いふ」用
ける=[助動]過去「けり」体
は=[係助]主題の提示
水=[名]
行く=[動]カ四「行く」体
河=[名]
の=[格助]主格
蜘蛛手=[名]
なれ=[助動]断定「なり」已
ば=[接助]原因・理由
橋=[名]
を=[格助]動作の対象
八つ=[名]
渡せ=[動]サ四「渡す」已
る=[助動]存続「り」体
に=[格助]動作の対象
より=[動]ラ四「よる」用
て=[接助]単純な接続
なむ=[係助]強意(結びの語:ける)
八橋=[名]
と=[格助]引用
いひ=[動]ハ四「いふ」用
ける=[助動]過去「けり」体
⑥ その沢のほとりの木の陰に下りゐて、乾飯食ひけり。
その沢のほとりの木の陰に降りて座って、乾飯を食べた。
沢=[名]
の=[格助]連体修飾格
ほとり=[名]
の=[格助]連体修飾格
木=[名]
の=[格助]連体修飾格
陰=[名]
に=[格助]動作の帰着点
下りゐ=[動]ワ上一「下りゐる」用
て=[接助]単純な接続
乾飯=[名]
食ひ=[動]ハ四「食ふ」用
けり=[助動]過去「けり」止
⑦ その沢にかきつばたいとおもしろく咲きたり。
その沢にかきつばたがたいそう美しく咲いていた。
沢=[名]
に=[格助]場所
かきつばた=[名]
いと=[副]
おもしろく=[形]ク「おもしろし」用
咲き=[動]カ四「咲く」用
たり=[助動]存続「たり」止
⑧ それを見て、ある人のいはく、「かきつばたといふ五文字を句の上に据ゑて、旅の心を詠め。」と言ひければ、詠める。
それを見て、ある人が言うことには、「かきつばたという五文字を〔和歌の〕各句の上に置いて、旅の心を詠みなさい。」と言ったので、〔男が〕詠んだ〔歌〕。
を=[格助]動作の対象
見=[動]マ上一「見る」用
て=[接助]単純な接続
ある=[連体]
人=[名]
の=[格助]主格
いはく=[動]ハ四「いふ」ク語法
かきつばた=[名]
と=[格助]引用
いふ=[動]ハ四「いふ」体
五文字=[名]
を=[格助]動作の対象
句=[名]
の=[格助]連体修飾格
上=[名]
に=[格助]場所
据ゑ=[動]ワ下二「据う」用
て=[接助]単純な接続
旅=[名]
の=[格助]連体修飾格
心=[名]
を=[格助]動作の対象
詠め=[動]マ四「詠む」令
と=[格助]引用
言ひ=[動]ハ四「言ふ」用
けれ=[助動]過去「けり」已
ば=[接助]原因・理由
詠め=[動]マ四「詠む」已
る=[助動]完了「り」体
⑨ 唐衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ
何度も着慣れた着物のように、長年慣れ親しんだ妻が〔都に〕いるので、はるばるやってきた旅をしみじみと思うことだ
き=[動]カ上一「きる」用
つつ=[接助]動作の継続
なれ=[動]ラ下二「なる」用
に=[助動]完了「ぬ」用
し=[助動]過去「き」体
つま=[名]
し=[副助]強意
あれ=[動]ラ変「あり」已
ば=[接助]原因・理由
はるばる=[副]
き=[動]カ変「く」用
ぬる=[助動]完了「ぬ」体
旅=[名]
を=[格助]動作の対象
し=[副助]強意
ぞ=[係助]強意(結びの語:思ふ)
思ふ=[動]ハ四「思ふ」体
⑩ と詠めりければ、みな人、乾飯の上に涙落として、ほとびにけり。
と詠んだので、人はみな、乾飯の上に涙を落として、〔乾飯が〕ふやけてしまった。
詠め=[動]マ四「詠む」已
り=[助動]完了「り」用
けれ=[助動]過去「けり」已
ば=[接助]原因・理由
みな人=[名]
乾飯=[名]
の=[格助]連体修飾格
上=[名]
に=[格助]動作の対象
涙=[名]
落とし=[動]サ四「落とす」用
て=[接助]単純な接続
ほとび=[動]バ上二「ほとぶ」用
に=[助動]完了「ぬ」用
けり=[助動]過去「けり」止