(1)昔、男ありけり。……
原文
①昔、男ありけり。女のえ得まじかりけるを、年を経てよばひわたりけるを、からうじて盗み出でて、いと暗きに来けり。②芥川といふ川を率て行きければ、草の上に置きたりける露を、「かれは何ぞ。」となむ男に問ひける。
③ゆく先多く、夜も更けにければ、鬼ある所とも知らで、神さへいといみじう鳴り、雨もいたう降りければ、④あばらなる倉に、女をば奥に押し入れて、男、弓・胡簶を負ひて戸口にをり、⑤「はや夜も明けなむ。」と思ひつつゐたりけるに、鬼はや一口に食ひてけり。⑥「あなや。」と言ひけれど、神鳴る騒ぎに、え聞かざりけり。⑦やうやう夜も明けゆくに、見れば率て来し女もなし。⑧足ずりをして泣けどもかひなし。
⑨白玉か何ぞと人の問ひしとき露と答へて消えなましものを
現代語訳
①昔、男がいた。女で、〔男が〕妻にできそうになかった女を、長年求婚しつづけてきたが、やっとのことで盗み出して、たいそう暗いところに来た。②芥川という川を連れて行くと、〔女は〕草の上に置いてある露を(見て)、「これは何かしら。」と男に尋ねた。
③行く先は遠く、夜も更けてしまったので、鬼がいるところとも知らないで、雷までもがたいそうひどく鳴り、雨もたいへん降ってきたので、④荒れた隙間だらけの倉に、女を奥に押し入れて、男は、弓・胡簶を背負って戸口に立ち、⑤「早く夜も明けてほしい。」と思いながらじっと待っていたところ、鬼が早くも〔女を〕一口で食ってしまった。⑥「あれえ。」と言ったけれど、雷が鳴る騒ぎで、聞くことができなかった。⑦だんだん夜も明けていくので、〔男が倉の中を〕見ると連れてきた女もいない。⑧じだんだを踏んで泣くがどうしようもない。
⑨〔あそこに光るものは〕真珠ですかと何ですかと女が尋ねたとき、露と答えて〔はかない露のように2人で〕消えてしまえばよかったのに。
(2)これは、二条の后の、いとこの女御の御もとに、……
原文
①これは、二条の后の、いとこの女御の御もとに、仕うまつるやうにてゐ給へりけるを、②かたちのいとめでたくおはしければ、盗みて負ひて出でたりけるを、③御兄、堀河の大臣、太郎国経の大納言、まだ下臈にて内裏へ参り給ふに、④いみじう泣く人あるを聞きつけて、とどめて取り返し給うてけり。⑤それを、かく鬼とは言ふなりけり。⑥まだいと若うて、后のただにおはしける時とや。
現代語訳
①この話は、二条の后(=藤原高子)が、いとこの女御のところに、お仕えするようにしていらっしゃったのを、②容貌がたいそう美しくいらっしゃったので、〔男が女を〕背負って踏み出したのを、③御兄の堀川の大臣(=藤原基経)、長男の国経の大納言(=藤原国経)が、まだ低い身分で内裏へ参上しなさるときに、④たいそう泣く人がいるのを聞きつけて、引きとめて取り返しなさったのだった。⑤それを、このように鬼と言うのであった。⑥まだたいそう若くて、后が普通の身分でいらっしゃったときのことだという。